花岡事件

概要

 昭和19年から20年にかけて、986人(内、途中死亡7人)の中国人が花岡鉱山にあった鹿島組花岡出張所へ連行されました。彼らは花岡川の改修工事、鉱滓堆積ダム工事の掘削や盛土作業に従事させられ、道具はシャベルとツルハシ、モッコだけでした。
 作業所での扱いは過酷なもので、補導員の中には指導の名のもとに激しい暴行を加える者もいて、加えて敗戦直前の時期から国内の食糧事情の悪化が彼らの上にも重くのしかかり、耐えがたい暴行と空腹で精神に異常をきたす者もでました。「中山寮」に強制連行された979人のうち137人が死亡し、更に暴行や栄養不良で身動きできない重症者が多くいました。
 餓死か、暴行によって殺されるか、という状況の中で、耿諄大隊長ほか7人の幹部は「このままではみんな殺されてしまう。もはや一日も忍耐できない、蜂起するしかない」と考えました。寮内の動きを調べ、蜂起は6月30日の真夜中と決定。しかし、計画が知れわたると規制がきかない者もでてきて統制は大きく崩れ、以後の組織的行動は不可能となりました。とりあえず逃走命令を発しそれぞれ逃げましたが、重症者の一群は神山付近で最初に捕まり、次に身体の弱っている一群が旧松峰付近で捕まってしまい、残る主力集団約300人も獅子ヶ森山中に逃げ込み抵抗はしたものの食糧も水も無く力尽き次々と捕らえられてしまいました。
 捕まった者たちは7月1、2、3日と共楽館前広場に炎天下のもと数珠繋ぎに縛られ、座ったままの姿勢でさらされました。3日の夜に雨が降ったため何人かは死なずにすみましたが、大勢が亡くなりました。
 死体は10日間も放置されたあと、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で三つの大きな穴が掘られ埋められました。この後も中国人の悲惨な状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が亡くなりました。 終戦後の10月7日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れ、棺桶から手足のはみ出ている中国人の死体を見つけ、その日のうちに詳細な調査を開始しました。こうして「花岡事件」が明らかになっていきました。
 強制連行の途中で亡くなった中国人の慰霊や花岡で亡くなった中国人の遺骨は、信正寺(花岡)の蔦谷達導師により供養が続けられ、昭和28年に中国へ送還されました。 昭和38年11月に花岡十瀬野公園墓地で「中国殉難烈士慰霊之碑」が、昭和41年5月には花岡姥沢で「日中不再戦友好碑」の除幕式が行われました。
 花岡事件を後世に語り継いでいくため、平成22年4月17日、「花岡平和記念館」が花岡町前田に建設されました。

慰霊碑

中国殉難烈士慰霊之碑:秋田県大館市花岡町 十瀬野公園
日中不再戦友好碑:秋田県大館市花岡町 滝ノ沢沈殿池

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中国殉難烈士慰霊之碑

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日中不再戦友好碑

展示品の紹介

花岡ものがたり

品名:花岡ものがたり

連作版画

版画は1945(昭和20)年に起きた花岡事件を題材に創作された。鈴木義雄氏(日中友好協会秋田県連合会会員)が企画、詩を喜田説治氏が、原画を新居広治氏が制作。滝平次郎氏と牧大介氏の協力を得て木刻し、1951(昭和26)年に完成。版画集「花岡ものがたり」として出版された。

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