扇田道下遺跡発掘調査報告書

扇田道下遺跡発掘調査報告書

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 扇田道下遺跡は、秋田職業能力開発短期大学校の建設事業に伴い、平成2・3年度に大館市教育委員会が発掘調査を行い、縄文・平安時代の複合遺跡であることが分かりました。主体は平安時代で、竪穴住居跡が約60軒も見つかっている市内屈指の古代集落跡です。

 扇田道下遺跡の資料については、『大館の歴史』にごく一部触れており、調査時の写真パネル及び出土品は大館郷土博物館に若干展示しておりますが、資料全体の内容について報告書は刊行できていませんでした。

 当該資料は、平安時代の大館地方の代表的な資料として、北日本の研究者から注目されております。その学術的価値をかんがみ、平成2224年度に緊急雇用創出臨時対策基金を活用して、図面・出土品の再整理を行い、このたび本報告を刊行するはこびとなりました。

 このWebサイトでは、報告書のPDFを公開しますので、研究資料としてご活用ください。

  A4判、276ページ

 

 

遺跡の概要

 扇田道下遺跡は、大館市字扇田道下地内、大館盆地中央部の大館段丘に所在します。大館段丘は米代川とその支流である長木川に形成された河岸段丘であり、遺跡は標高約68mの地点に立地して、地形区分上では中位段丘面です。現在では東北職業能力大学校秋田校が建っているところです。

 遺跡は秋田職業能力開発短期大学校の建設事業に伴い、平成2年(1990)・3年(1991)に発掘調査が実施されました。調査の結果、扇田道下遺跡は縄文・平安時代の複合遺跡であることが判明しました。

 縄文時代の遺構・遺物はごく少なく、主体は平安時代の集落跡です。縄文時代の竪穴住居は、中期末(約4,000年前)のものが1軒のみ見つかっています。縄文土器のうち、最も古い土器は前期中葉で、土器は前期以降晩期まで断続的かつ散発的に存在します。平安時代の遺構は調査区全体に分布しており、竪穴住居約60軒掘立柱建物13棟の他に、土坑・溝・ピットがあります。遺物は住居跡の埋土やカマド内から出土しました。平安時代資料の総数はコンテナ約50箱です。おもな遺物は土器(須恵器・土師器)が大多数で、ほかに鉄製品、石製品、炭化した米、鉄関連遺物です。このうち大半を土師器煮炊具(甕類)が占めています。

 遺構の分布をみると、地形に沿って竪穴住居や掘立柱建物などの遺構が重複して列状に分布しています。竪穴住居は59軒確認されていますが、このうち3分の1に相当する19軒に掘立柱建物がセットになる「竪穴・掘立柱併用建物」と呼ばれる遺構が存在することが判明しました。このような建物跡がまとまって見つかった例は県内ではほとんどなく、青森県津軽地方で多く見られるものです。このため、本遺跡は津軽地方との何らかのつながりが想定されます。竪穴住居跡は四角形の平面形で、地表面を数10㎝掘り込んだものです。これにカマドや貯蔵穴などが付属します。竪穴の面積は最小5㎡から最大91㎡までの差がありますが、最も多いのは10~25㎡のもので、22軒(約50%)を数えます。竪穴住居のうち2軒(SI25と58)の埋土中には延喜15年(915)に噴火したとされる十和田火山の軽石層が10cm前後堆積していることが認められます。このことから少なくとも915年頃には廃絶していた住居が2軒あるということ、すなわち915年以前から本遺跡の集落は成立していたことがわかります。また、大半の住居の埋土中からは十和田火山軽石は検出されていないため、噴火後に再び集落が営まれたといえます。

 掘立柱建物は13棟あり、総柱建物と側柱建物があります。前者は床張りの高床式と考えられ、11棟あります。これらは2間×3間のものが2棟みられるほかは、いずれも2間×2間の小規模なもので、面積は15㎡のものが多数を占めます。竪穴住居(SI54)からは炭化米が出土しており、米を貯蔵するための施設として高床式倉庫が存在していたことが推定されます。

 扇田道下遺跡の出土土器の主体をなすのは平安時代(9世紀第4四半期~10世紀前半)の土器です。竪穴住居を中心にまとまって出土しました。出土土器には須恵器と土師器の2種類がありますが、大半は土師器です。土器は食膳具(椀・皿)と煮炊具(甕・鍋)、貯蔵具(瓶・壺)に大別されます。食器には須恵器と土師器の椀・皿、煮炊きには土師器の甕・鍋、貯蔵には須恵器の瓶・壺が使用されました。土師器はロクロ使用のものとロクロ不使用のものの2種があり、Ⅰ期・Ⅱ期の新旧2時期に分けられます。土師器煮炊具はⅠ期にロクロ使用のものがありますが、Ⅱ期にはロクロ使用のものがほとんどみられなくなります。須恵器は胎土や色調、製作技法などの特徴から、少なくとも2種類以上あり、このうちの一つは青森県五所川原市で生産されたものです。五所川原産須恵器は9世紀第4四半期から10世紀の後葉にかけて生産されましたが、扇田道下遺跡からは、このうち前半期(持子沢窯や前田野目7号窯)の須恵器に類似するものが出土しています。

 土器以外には鉄製品と鉄関連遺物が少量出土しています。鉄製品は23点得られました。全体に錆が激しく、形態を判別できないものも多いのですが、斧、手鎌、鍋、鍬、刀子、鏃、釘などがあります。鉄関連遺物は、椀形鍛冶滓1,932gとフイゴ羽口2点が出土しています。鍛造剥片や台石は検出されてなく、遺跡内で鍛冶が行われていた痕跡は確認されていません。竪穴住居内から出土した鉄滓は棄てられたものと推定されます。これらは近辺の製鉄炉で生産された滓混じりの製錬鉄塊を素材にして、鍛冶炉を用いて二次的な製錬鍛冶を行った過程で排出された資料と考えられます。

 九州テクノリサーチの大澤正己氏と鈴木瑞穂氏により、扇田道下遺跡出土鉄滓の分析が行われています。分析結果によれば、通常砂鉄製錬滓にみられる鉱物組成であったことがわかっています。チタン含有率は高値傾向を示していますが、下記のように大館市内の大館野遺跡から出土した製鉄関連遺物よりも、そのチタン含有率(TiO2)は低めです。

fig.126
 本報告に掲載されている九州テクノリサーチの分析第126図より

 扇田道下遺跡には製錬滓との分離が悪い状態の鍛冶原料が搬入されており、さらなる除滓作業(製錬鍛冶)が必要であったと推察されています。

 以上のとおり、竪穴住居埋土の火山軽石層や出土土器の特徴から平安時代の扇田道下遺跡の位置づけは、先行事例を参考にすると「平安時代前期の終わりから中期初め頃」と考えられます。遺跡からは炭化米と鉄製鋤先が出土していることから、稲作を行っていた農耕集落と考えられます。扇田道下遺跡は、大館盆地における平安時代前期から中期の代表的な遺跡であり、数多くの遺構や遺物から当該期における暮らしぶりを研究できる学術的価値の高いものです。元慶2年(878)には、秋田城を焼き討ちした「元慶の乱」が勃発しましたが、本遺跡が成立するのはその直後の9世紀第4四半期頃です。本遺跡の成立の背景には、元慶の乱以後の政治勢力と何らかの関わりがあることがうかがえます。本遺跡出土資料は、大館市の歴史を解明する上で欠くことのできない貴重な文化財であり、今後も大切に後世に伝えていく必要があります。

調査報告書PDF

ダウンロード(前半) [PDF 19.1MB]
ダウンロード(後半) [PDF 11.5MB]

写真

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 調査風景  竪穴住居(SI58)土層断面
000表紙-報告書第8集 000表紙-報告書第8集
 須恵器広口壺  土師器鍋

                

 

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